資源文化
麗江壁画はナシ族社会の大開放の産物である。
有名な「麗江壁画」は明朝のナシ族社会大開放の産物で、明初から清初まで、300年以上も続けていた。明末清初時期は、麗江壁画が最も繁栄している時期で、今までは五百年の歴史を持っている。
この長い年月の中に、麗江は十代以上の土司や流官たちの統治を経験した。土司と流官の中に、開明者もいたし、愚昧者もいた;栄え者もいたし、衰え者もいた;念仏者もいたし、道教信者もいたし、ラマ教者もいた。統治者の好みによって、麗江の各宗教は常に相次ぐの交代発展が現れ、麗江の寺が時には栄え時には衰え、これは直接に壁画の盛衰に影響した。
明朝の時に中原道教の絵画が挫折を受け、多くの有名画家が文人画に変え、一部の達人がナシ首領の手厚い贈り物によって雇用し、麗江に来た。その故、麗江の壁画は中原に基づきもっと抜群になった。これらの壁画達人は、内地で大量な宗教壁画を画いた経験を持つ、厚い基礎を築き、しかも、その壁画芸術成果のピークは玉龍山の下で実現できた。
大宝積宮壁画から見ると、描画流れはこのように:一つ一つの作品はひとりの達人が主筆とする。図面の総体構造から人物の姿や色基調の確定までは、すべてこの人によって協調し把握、業内の話では「統稿」と称する。そのほかの絵師は厳格に「統稿」に従って画いて、肝心な部分は主筆によって自ら完成する。作品が完成後、主筆は全体から出発、全作品に対し潤色を行い、協調性のない一部を調整し、基調から外れている色を統一的な基調までに調整し、ここまでは壁画が完成させる。
大宝積宮の壁画は概括にいえば、二つ宗教と二つ風格である。二つの宗教は:道教、漢仏教とチベット仏教。二つの風格は:道教風格とチベット仏教風格。
二つの風格の中には、道教風格がメインである。正壁の『如来様会図』と両壁の『海会図』、『観音普門品モノ語り図』三つの巨作は全部道教の絵画風格がメインにする。こう見ると、全殿の壁画の総創は中原の達人と見られる。
チベット仏教風格の作品は著しい所に描いていたが、数量が少なくない、西壁の5つ及び北壁の西面の第一番目の壁画と正壁の『如来様会図』上部の三行チベット仏教神像は全部チベット仏教風格の作品である。これらのチベット仏教風格の作品は、総創人の調整を受けていたが、風格は特別で、この部分の作品の主筆及び主要絵師がチベット由来と判明できる。漾西村万德宮石碑に「画工古宗古昌」の記載があり、この古宗(チベット)人の古昌という人はこれらの作品の主筆である可能性がある。
壁画の内容から言えば、漢仏教の内容が中心にしている。三大作品から見ると、主神はすべて漢仏教の中の大仏と菩薩である。前にも言ったが、明朝後、道教が挫折を受け、民間活動に転入した。仏教なら、頭を上げて朝廷から重要寺まで、漢仏教は主役を演じている。
宗教内容の二番目は道教である。当時に、中原の道教がダメージを受けたが、辺境地区なら厳重に波及していなく、それにこの壁画の総創意者は道教体裁の達人であった。壁画の主神は木天王の要求に従って描く必要で、他の神像なら自覚的に絵師の得意な道教人物に描き、その故、壁画の人物イメージから見ると、道教は著しい位置を占めている。
チベット仏教の内容は三番目である。十三件の作品の中に、ラマの主題が六件であるが、幅の面が小さく、著しい位置に位置しない。当時木氏の外交天平が中央王朝に傾けているのを見られる。然し、ラマたちの努力を経て、6つのチベット仏教風格の作品は独立性がより強く、独特な風格を表している。
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