資源文化
麗江の歴史
麗江古城は南宋朝時期から初めて規模を持っていて、八、九百年以上の歴史を持っている。明朝の時から、麗江古城は「大研廂」と称され、麗江ハーの中心に位置することで、4つの方位が青山に囲まれ、一つの緑の田畑の中に緑の水が流れていて、大きい碧玉の硯のように見え、その故、「大研廂」と名付けた。
  歴史軌跡:
麗江は戦國の時に秦国蜀郡に属する。漢朝の時に越郡に属する。三国の時に雲南郡に属する。南朝の時に遂段県に属し、ほぼこの時にナシ族の先民がここに移転する。
古色古香の麗江古城 
唐朝の時に姚州都督府地になり、その後はと吐蕃、南詔の地となり、「桑川」と称され、剣川節度に属する。
宋朝の時に善巨郡の地で、城を建て始め、その後、フビライが南へ征戦し大理まで到着、レザー製のカバーを使って金砂江を渡し、兵隊をここで止まって駐在し訓練を行い、「阿営」の遺跡は今までも存在している。当時の居民は千家余りあり、元朝十三年に麗江路に修正し、麗江の名はここから呼ばれ、麗江(金砂江の古名)ベイに寄り添うことに名付けられた。
明朝末に已に規模を持って、日々繁栄し、地元の土司木氏が作った宮室は非常に華麗で、徐霞客が遊記の中に「宮室の美しさは、王者の物に似ている」と称し、麗江府を「諸土郡より豊か」と説明した。『明朝雲南土司伝』にこう言った:「雲南の諸士官は皆詩書を知り、礼儀を守り、特に麗江の木氏がトップ」。府城の大研の名も明朝に始まる。麗江ハーの中心に位置することで、4つの方位が青山に囲まれ、巨大硯のように見え、その故、「大研(硯)廂」と名付けた。
清朝の時には麗江府である。雍正元年(1723)に、土司制度を流官制度に変更、木氏土司が元朝以来の世襲統治を終わらせた。乾隆三十五年(1770)に、麗江県を設置した。
1961年に麗江ナシ族自治県を設立し、麗江地域に属する。
1997年12月、麗江古城は世界文化遺産を申告成功で、中国が世界文化遺産に歴史文化名城なしの空白を補填した。
2003年4月、麗江が地区を市に変更し、元の麗江地区を麗江市になり、元の麗江ナシ族自治県を古城区と玉龍ナシ族自治県二つに分けた。
麗江の文化は1723年の清朝の「土司制度を流官制度に変更」政策以後、ナシ文化と漢族文化の総合体になった。金砂江西岸の中甸白地(ナシトンパ教の発祥地)のナシ人と金砂江東の瀘沽湖地区の摩梭人と比べると、麗江ハー区域のナシ地域は中原漢族文化の深い影響と同化を受けていて、このような同化過程は1996年大地震及びその後の旅行業の発展中にスピートアップしつつある。
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